旅館へと一足先に帰ったあと、千絵は梓たちが帰ってくるまで部屋で一人過ごした。
 暗い部屋の中、ずっと昼間のことについて考えていた。だけど、答えは出なかった。
 夕飯を食べ終わった後、一人で浜辺に出かけた。
 梓たちは部屋でトランプをして遊ぶようであったが、とても気が乗らなかった。
 磯の匂いを運ぶ風と、潮騒の音だけが耳に届いていた。海岸ではしゃぐ数少なくない若者の声は、一人の惨めさを引き立てるだけで、あえて意識しないようにした。
 もう一度、昼間のことを考える。
 どこからどう見ても最悪だった。
 軽蔑されても仕方ない程、自分はヒドイ女だった。
 そんな私をあいつは助けてくれた。いやその前に、あの場にいたということは私を捜していたのだろう。
 それなのに……。それなのに自分は素直に「ごめんなさい」と言えなかった。
 心の中では何度も繰り返していたのに、いざ口から出たのは拒絶の言葉でしかなかった。
 今でも頭の中の冷静な自分はこう告げている。「いますぐ謝るんだ」と。
 だけど体がついていかないのだ。夕食のときもどうにかして謝ろうと奮闘したが、心の中の言葉が口から出ることはなかった。
 どうにかして謝らないと。
 さっきから同じところをぐるぐる回っている。永遠に答えを得られない煩悶のようだ。
 いや、答えは出ているのだ。
 なのに、なぜ……。
 むき出し感情と冷静な理性がごちゃ混ぜになって、答えを得ようと悶えている。
 一つずつ、感情と理性を思考から引きはがしながら、答えへの道を歩んでいく。
 感情はこう告げている。水原に謝るということは、何か他の重大な意味を含んでいるように思えてならない――謝罪が自分の中にある想いを悟らせてしまうかもしれない、と。
 理性はこう反論する。いや、そんなことはありえない。たかが謝罪一つで、自分の気持ちが相手に伝わってしまうことなんか、ありえない。なのに、なぜ謝れないのだろうか……。
 感情と理性の果てない論争。でも結局は同じところに戻ってくる。
 なぜ謝れないのだろうか、と。なぜ。なぜ。なぜ……。
 砂浜に転がる石を蹴り飛ばしながら、ひたすら考える。
 チャポン。
 つま先で蹴飛ばした石が、心地よい音を立てて海面に飛び込んだ。
 ――あっ。
 そのとき、千絵の中で言い合っていた感情と理性が一瞬で喪失した。そして、理解した。
 なぜ、自分が素直に謝れないか、その理由が。
 彼に謝るということは、自分の中の想いを認めてしまうということなのだ。自分が認めてしまえば、「想い」は確かな存在となる。形を得た「想い」は自分の心を斡旋していくだろう。そして「想い」が心を征服し終わったなら、いままでの自分じゃなくなる。あいつと自分の関係は、今のようなものとはまったく別物になってしまうのだ。
 なぜ謝れないか。答えは単純だった。怖いのだ。とてつもなく怖いのだ。この関係が崩れてしまうことが。
 怖い。恐い。こわい。千絵の心を恐怖が埋め尽くす。
 どこまでも、どこまでも、埋め尽くす。
 突然、音が響いた。
 ――えっ?
 鼓膜を揺さぶる空気の振動。何かが爆発した音だった。
 夜空を見上げてみれば、大輪の花が咲いている。
 花火だった。
 夏、若者でにぎわうこの海岸は夜になると花火があがることがあるらしいことをすっかり忘れていた。
「きれい……」
 さっきまで恐怖に占領されかけていた心は、夜空の咲いた花の美しさで少しだけ明るくなった。
 同時にふと、思う。
 ――あいつも見ているのかしら……。
 想いを届けるべき相手も見ているかもしれない花火は、いまもまだ上がりつづけている。
 明るく輝く火の花に照らされて、少しだけ先が見えやすくなった海岸線を歩いてゆく。
 このままどっかに行ってしまおう。心に生まれた不安や恐怖も、そうすれば幾分楽になるかもしれない。
 そうすれば、あいつのことも――
「千絵ちゃん」
 ――えっ?
 声のする方へ反射的に振り返ると、ずっと思いつづけていた相手――水原が立っていた。
 心が歓喜に弾んだ。
「やっと見つけたよ。部屋に行ったら梓ちゃんたちは知らないって言うし。結構捜したんだよ?」
「な、なんで――」
「なんでってヤボなこと聞かないでくれよ。決まってるじゃないか。傷ついた美女を見捨てたりなんかしたら、軟派師の名折れだろ?」
 動揺したまま口から出た言葉は、水原にあっさり返されてしまった。 
 花火の上がる音はまだ止まない。
 明るく輝く花は、水原の横顔を瞬いてみせていた。
 急に、歓喜は嫌悪へと転落する。これ以上、醜い自分に何の用があるというのだ。
 いけない、と思いつつも、またもや思考の奈落へと引きずられていく。
「……なんで。なんでなの? なんで私をそんなに構うの? 放っといてよこんなワガママ女。あなたは私なんかに構わない方がもっと楽しめるでしょう? こんなカナヅチ相手するより、どっかの美女ナンパしている方が楽しめるでしょう? お願いだから……。お願いだから、私に構わないで」
 ああ、またやってしまってる。心の冷めた部分ではわかっていながらも、奈落に捕まってしまった。
 吐露した言葉の後には、沈黙が下りる。
 ――ほら、ついに水原も自分に愛想つかしてしまった。
 もはや自己嫌悪を通り越して、自暴自棄の境地に達してしまったようだ。もう本当にダメなんだ……。
 しかし、そんな千絵の感情にはまったくお構い無しで、水原は必死に自分の言葉をまとめようと奮闘していた。
 どうやったら、自分の思いを伝えることが出来るのか。それも最高の言葉で。
 考えに考え、やっと言葉の整理をできた水原は口元に苦い笑いを浮かべ、すぐさま真剣な表情になった。
「千絵ちゃん。なんで俺が君を構うかって? そんなの当たり前のことじゃないか。だって――

 俺は千絵ちゃんのことが好きなんだから

 急に花火の音が遠ざかった。
 ――え?
 自分の耳を疑った。
 いま彼は何と言ったのか?
 事態を飲み込めていない千絵の顔を見て、水原は捲し立てる。
「だ・か・ら、俺は千絵ちゃんのことが好きなの。どんなにワガママ言われたって、どんなにカナヅチだって、どんなに無鉄砲だとしても、俺はそんな千絵ちゃんが好きなの。夜中になっても必死に騒がし回って、ものの勢いで告白しちゃうほど好きなの。わかった?」
 水原がしゃべり終わった後でも、千絵は永遠に呆然としていた。
 爆音。
 花火の音が、遠ざかったときと同じように急に戻ってきた。
 好き?
 自分の願望ではなくて?
 それが彼の想い?
 急に降って湧いた現実と、自分の願望とがごっちゃまぜになって、千絵は完全に混乱していた。
「ねぇ、千絵ちゃん。人が真面目に告白したんだから、なんとか言ってよ。もちろん言葉の代わりにアツーいキスでもOKだけど」
 混乱している頭の中に、水原の軽薄な冗談が流れ込んでくる。
 ようやく、千絵は現実を認識しはじめた。
 自分は告白されたという現実を。
「え、あ、」
 急いで口から飛び出た言葉は、まったく意味をなさない。
「えあ?」
 水原も千絵が混乱している様子を見て、彼女をからかいはじめた。
「えっと、私のことが……?」
「君のことが」水原は千絵に続いて復唱する。
「好き?」
「好き」
 またも混乱。水原が混乱の収拾に救いの手をすばやく差し伸べる。
「で、千絵ちゃんは俺のこと、どう思ってるわけ?」
「わ、私は」
 私は――。
 答えは決まっている。心は決まっている。あとは口に出して、踏み出すだけ。
「水原のことが」
 続く言葉は一つしかない。一言しか。早く言ってしまえ。
 その一言を。


 夜空には、大輪の花が輝いていた。
 必死に伝えた少女の「想い」は夜空に飛び出したとたん、輝く火の花にかき消されてしまった。
 だけれども、「想い」は決してなくなってしまったわけではない。
 少女と、この世で一番「想い」が届いて欲しい相手の心にはしっかりと刻み込まれたのだ。
 これ以上幸せなことはこの世にないだろう。
 そうして二人は、明るく照らされた夜空を見上げて世界一の幸せを手に入れた。


 END


 あとがき