written by 千秋


 今年の冬は例年に比べて暖かい――テレビではそう報じられていたが、年末にはちゃんと雪が降り、年が明けてからはいっそう冷え込んだように思われる。
 新年の賑やかさが失われていく街には乾いた風が吹き、寒さとともに日常の姿を取り戻しつつあった。
 夕暮れ時の雪の街並には、帰宅を急ぐ人たち、仲間で集まって騒いでいる者たち、そして夜の街に繰り出す野郎たち、様々な姿が伺える。これがこの葛根市という街の日常であった。
 しかしそんな平和な街並を尻目に、とあるマンションの一室は修羅場と化していた。

「水原! あんた真面目に問題解きなさい! 何ここの答え? ジャンキー的ジョーク?」
「え〜千絵ちゃん、別にこれでいいじゃん。どこが間違ってんの?」
「じゃあ聞くけど、なんでここの角度がこうなるの!?」
「いや〜、たぶんこんな感じかな〜と思ってね」
「そんな適当な感覚で受験を乗り切れるわけないでしょ! ほら、もう一回解く!」

 世間の大方は、三ヶ日が終わったといってもまだまだ休日モードだ。しかし、この世に生を受けた限り――少なくとも日本では――、高校三年生のこの時期に襲いかかる悪夢からは逃れられない。
 すなわち、「受験」である。

「ほら景ちゃん、ここはこうでしょ。ったく全くダメなんだから」「わかったから、梓ちゃん。ちょっと離れて」
「梓さん! 物部くんで遊んでないで、自分の問題ちゃんと解いて! さっきからのろけ声しか聞こえてこないわよ!」
 マンションのその一室では怒声が飛び交っていた。
 とはいってもその怒声のほとんどは、たった一人の人物から発せられている。
 海野千絵――怒声の主にして、この勉強会の発案者であった。

       ◆◆◆◆◆

「ねぇ梓さん。今度クミちゃんたちの勉強会じゃなくて、物部くんと水原を交えた四人だけの勉強会を開きましょうよ」
 そんな提案がなされたのは、大晦日も間近と迫った年末のある日。久美子たちとの勉強会の帰り道、喫茶店『パンドラ』での一場面。
 梓と千絵の二人が大晦日の年越し計画や、クミたちや自分たちの今後の勉強計画の話題に差し掛かったところだった。
 同じく久美子たちの勉強会に参加していた景と水原の男二人は、早々に帰路に着いている。なぜこの談笑の場に来なかったのかと聞かれれば、自分たちの成績は絶望的で、寝る間を惜しんで勉強するよう千絵から釘を刺されているからだ、と答えるだろう。
 そんなこんなで二人は久しぶりの女同士の会話を楽しんでいた。
 何しろあのクリスマス・イブから数日しか経っていないのだ。事件の終わった後は、間髪入れず久美子たちの相手をしていて、こんなゆったりとした時間は久しぶりだった。外はとっくの昔に暗くなっていたが、二人はそんなことには気にせず、積もる話を一つずつ切り崩していった。
 そうして、はじめの千絵の提案に至る。

「ね、そうしましょうよ。私たちクミちゃんにかかり切りで、自分たち用の勉強があんまりできていないんだし。みんなあんまり危機感がないけど、私たちもうすぐセンター試験があるのよ?」
「ん〜確かにもうすぐセンター試験よね……。クミちゃんたちと一緒の勉強会では、すぐにクミちゃんのペースになって集中できないのも確かだし……。勉強会開くの、わたしは良いと思うよ」
 梓は言葉言葉の間に黙考を交えつつも、最終的には千絵の提案に賛成した。
 すると千絵はいささか小鼻を膨らませつつ、梓と勉強会の計画を立て始めることにした。
「そうと決まれば、しっかり計画を組まなきゃね。場所はどこがいいかしら?」

 こうして勉強会を開くことを決めた二人は一時間ほど時間をかけて計画を立てていった。
 最終的に出来上がった計画は、新年が明けてしばらくたった後の週末、夕方から景の部屋で行うというものだった。
 だがこのとき梓が軽い気持ちで承諾した勉強会は、千絵にとっては大きな意味を持っていた。
 この勉強会を提案したのはその目的のためである、と言っても過言ではない。
 そしてこのとき、千絵はその目的のための第一歩を踏み出したのだった。

       ◆◆◆◆◆

 一月初旬の夜の訪れは早い。マンションの外はすでに夜の闇に包まれており、冷え込みは本格化してきた。
 しかしそんな外の様子などお構い無しに、物部宅は活気に満ちていた。

「あーここわかんねぇよ、千絵ちゃん」
「だからさっきも言ったでしょ。この物体とこの物体について運動方程式を立てて、連立させるの」
「そんなことも聞いたこともあるような、ないような……」
「ちょっと、しっかりしてよ。ただでさえ理解するのが難しいところなんだから。気を抜いたら一瞬でわけがわからなくなるわよ」

 四人は長方形の背の低いテーブルに二人ペアとなって、向かい合うようにして勉強している。
 片方は千絵と水原のペアで、もう片方は梓と景のペアだ。
 ペアの分け方は「理系」と「文系」という実に単純な分け方であった。
 つまりは千絵と水原は理系で、梓と景は文系なのだ。
 将来自らの探偵事務所を作ろうと目論んでいる千絵は、電子機器などの操作資格を取るために理系を志望しており、梓は大抵の女子生徒と同じ様に文系に進んだ。
 ここまでは何ら問題ない。しかし残る二人の元ジャンキーが問題であった。
 何しろ丸六年まともに勉強していないのである。普通に考えれば、もう一年間浪人して勉強し直すのが常識だ。
 だが水原に言わせれば、一年間勉強だけの日々なんて保つわけがなく、学力が落ちるだけであると主張し、景の方は初めから浪人する気は無いそうなのだ。
 それでも、水原はまだ良い。なぜなら高校三年生の日々を自堕落に過ごしつつも、兄貴と同じ大学「文清」に進むため、学校にいる間ぐらいは勉強していた。理系に進んだのは、文系でコツコツ暗記していくのが性に合わないらしい。
 問題は景だ。丸六年間をまともに勉強せず、それでいて高校三年生の九ヶ月間をずっと『王国』で過ごしていたというブランクは易々ひっくり返せるものではない。
 当然のように履修範囲が多い理系という選択肢は斬って捨てられ、文系に進んだ。
 しかしそれでも今から受験に望むというのは、いくら何でも無茶な選択である。
 よって景が進むのは――本人が望むこともあり――自動的に専門学校なった。
 だが、この選択ですら障害が存在した。
 「出席日数」である。
 九ヶ月間一回も出席していなかったのだ。普通出席日数は三分の二以下になると、卒業が危うくなる。景の場合はその倍以上欠席している。
 もはや卒業は絶望的かと思われたそのとき。学校側は「卒業試験」という課題を提示してきた。つまり卒業試験で一定の点数以上が取れれば卒業させてやる、ということである。
 しかしその本心が「厄介払い」にあることは誰の目にも明らかだった。試験に合格できたなら卒業、不合格なら退学。学校から追い出すため以外の何ものでもなかった。
 だが景に卒業のチャンスが与えられたのも、また事実だった。
 よって景は目下この卒業試験に向けて勉強中なのであった。

「ねぇ千絵ちゃん。休憩しない?」
 夕食を済ましてから二時間ほど時間が経ったとき、水原がそう切り出した。
「あなたねぇ、さっきご飯食べ終わったばっかりでしょう」
 呆れた千絵が即却下する。
 しかし負けじと、水原は会話の矛先をテーブルの向こう側でじゃれ合っている二人に向ける。
「梓ちゃんもそう思わねぇ? 千絵ちゃんはついさっきみたいな言い方するけど、二時間も経っているんだぜ? そろそろ休憩した方が体にいいって」
「ったく景ちゃんたら……。え? 何? 水原くん」
 景をいじっていて自分の問いかけを全く聞いてなかった梓の姿を見て、水原は些かげんなりする。
 それでも諦めず、もう一回同じ内容を尋ねる。
「だから、そろそろ休憩した方がいいんじゃないかな?と思って」
 やっと質問を理解したのか、少しの間答えを吟味して返事をする。
「……そうね。確かに休憩しても良いかも。景ちゃんはどう思う?」
 突然話を振られたにも関わらず、景は冷静に返事を返す。
「まぁいいんじゃないかな」
「景ちゃんがいいなら、わたしもOK」
「よし! 梓ちゃんたちは物わかりが良い。ということで千絵ちゃん。ちょっと休もうよ」
「…………。まぁいいわ、少し休憩しましょう」
 千絵は納得しかねた様子だったが、二人の視線が要求するのを見て取って結局許可する。
 会長閣下に許可を貰った下っ端・水原は、いそいそと休憩の準備を始めた。

 なぜにあんなにも水原は休憩したがったか?
 考えなくてもわかる。勉強から逃げ出したかったからだ。
 しかし「少しの休憩」という一時的な逃避なら、あんなにも強く求めなかっただろうし、自ら進んで休憩の準備などしなかっただろう。
 つまり結論から言ってしまえば――水原は飲み物に、酒を忍ばせたのである。

「けいひゃぁ〜ん」
「梓ちゃん、酒臭いよ?」
「ひゃけくひゃい? あはは! なにひょれ?」
 水原が飲み物にどれだけの量の酒を忍ばせたかわからないが、梓は完全に酔っていた。それはもう、そんじょそこらの酒飲みオヤジより質の悪い酔い方だった。
「けいひゃん! もっとのみなひゃい! ひょれとも、わたひのひゃけがのめないっていうひょ?」
「梓ちゃん、もう何言ってるのかわからないよ」
 対する景ちゃんは全く酔っている様子が無い。そのかわり誰に向けてでもなくごちる。
「どうせ、あいつが用意するものだ。こんなことだろうと思っていたよ……」
「ん〜けいひゃん〜……」
 完全に酔っぱらった女王にからまれつつも、景は適当にあしらっていた。

 景が質の悪い酔っぱらいに絡まれているころ、テーブルの向こう側では怒声が響き渡っていた。
 千絵が酔いつぶれて暴れ回っていた……かと思われたが――
「水原! あんた飲み物にお酒を入れたわね!?」
 どうやら千絵は飲酒を免れたようである。
「げっ。ち、千絵ちゃんはなんで酔ってないの?」
 この水原のもっともな疑問に答えるように、千絵は畳み掛ける。
「ふっ。去年までの様にはいかないわ。どうせあんたが用意する飲み物にはなんかあるだろうと思って、一滴も飲まなかったのよ!」
 成長した自分の姿を誇示しているのだろうか。胸を反らしつつ、千絵は不敵に笑う。
「うわ、ずるい! 俺もちゃんと飲んだのに!」
「それはあんたが飲みたかったからでしょう!」
 よく見てみると、水原の顔がほんのり赤い。アンダーグランドで生きていた彼にとっては、酔っぱらうなんて珍しいことだろう。しかし気の置けない仲間に囲まれ安心していたせいか、今夜は酔いに無防備だったらしい。
「千絵ちゃんもさぁ〜今夜はパーっと飲もうよ!」
「何言ってるの! ちゃんと勉強しなさい! そんなんじゃ合格できないわよ!」
「勉強も大事だけどさぁ〜人生にはもっと大切なこともあると思うよ?」
「そういうことは成績を上げてから言いなさい!」
「まったく千絵ちゃんはきびしいなぁ〜」
 いつもの痴話喧嘩を繰り広げている様にも見えるが、どうにも水原のしゃべりにキレがない。だんだんと酔いがまわってきたのだろう。
 しばらくすれば――
「千絵ちゃん〜……zzz」
 かつて葛根市のアンダーグランドに名を轟かせたウィザードの相棒は、かわいらしい寝息をかき始めた。
 わがままな女王様も、「けいひゃん………」と寝言を交えつつ、すぅすぅと気持ちよく眠っている。
 そして、とり残された二人は顔を見合わせたあと、口元に苦々しい笑みを浮かべつつも、
「もう、まったく。……しょうがないわね」
「ああ」
 夢の中にいる仲間のことを温かく見守ってやることにした。

       ◆◆◆◆◆

 千絵がこの勉強会を開いた意味。その一つに「仲間四人での内輪騒ぎ」がある。
 あのクリスマス・イブ以降、四人だけでゆっくりする機会がなく、久しぶりに勉強しながらワイワイやろうというのが千絵の思惑の一つだった。
 そしてその目的は――水原の酒のせいで早々に切り上げられてしまったが――、一応成功を相見た。
 だが千絵はこの勉強会に臨むにあたって、もう一つ大きな目的があった。それは……
 ――物部くんと仲良くなること。
 この四人組の中で唯一、話す機会がほとんどなかった景と仲良くなる。
 それが今回の勉強会を開催した、千絵個人の目的だった。
 そして今のこの状況は、この目的を達成するのに絶好の機会と言えるだろう。
 酒で酔いつぶれた梓と水原が退場し、今この舞台上にいるのは自分と景だけなのだ。
 そう。この状況は千絵にとって、絶好の機会のはずなのだが……。
 ――何を話せばいいのかしら?
 はずなのだが……、千絵は振って湧いたこの状況に戸惑いを覚えていた。自分と景が仲良くなるためにはある意味恰好のシチュエーションだ。だが実際にその状況に陥ると軽く混乱してしまう。
 早々に勉強会からリタイヤした梓と水原は、景が持ってきた毛布をかけられて気持ちよく眠っている。とり残された二人は黙々と勉強していたが、辺りには気まずい雰囲気が漂っていた。
 すると意を決した千絵は、目覚めているもう一人の人物に声をかけてみた。
「物部くんは、何の学校へ進むの?」
 いきなり声をかけられたことに驚きながら、景は視線を上げる。
 第一段階は成功。千絵は心の中で小さくガッツポーズをする。視線を上げるか上げないかで一喜一憂するのは多少バカらしいものがあるが、今はそんなことは気にしない。
 そして視線を上げた景は一瞬言い淀んでから――酔っているのだろうか?――頬を少し赤らめて、自分の進路について口を開いた。
「え、いや…………特別本が好きってわけじゃないけど、今は司書になろうかと考えている。学校でもほとんど書庫にいたわけだし……。本に囲まれていると落ち着くしね。ただ――」
 ここでいったん語り手は視線を隣の女王に向ける。
「一つ心配なのは梓ちゃんなんだけどね」
「えっ? どうして?」
「いや、まぁ……」
 急に歯切れが悪くなってしまった。何かを話そうとしているが、心に引っかかるものがあって言えない。そんな感じの歯切れの悪さだった。
 ――聞かれたくないことなのかしら?
 景の様子を見てとり、それ以上問いつめるようなことはしなかった。
 二人の間に再び沈黙が下りる。話すことがなくなれば、勉強に戻るだけだ。
 ――結局、物部くんのことはよくわかんなかった……。
 千絵も些か落胆しつつ、勉強に戻る。部屋にはカリカリ、と規則的な音が響く。シャーペンの芯がノートをこする音は、どこか緊張した空気を造り出していた。
 だがそんな部屋の雰囲気は突然響いた音によって、かき消された。
 ガタッ。
 ――えっ、何!?
 景が立ち上がったのだ。そしてそのまま、何も言わずベランダへ向かう。
 千絵は自然と目でその姿を追うが、景は振り返らずベランダの出入り口であるガラス戸に手をかける。
 ガラス戸を開けたとたん、冷たい風が室内に吹き込む。しかし寒さは一瞬で、すぐにガラス戸は閉められた。
 部屋には一人、千絵が残された。
 人知れず、溜息が漏れる。
 ――まただ……。
 自分と景との距離。それをひしひしと感じる時がある。
 梓や水原とは気軽に話せる。馬鹿な話で盛り上がったり、不安を分け合うことだって出来る。
 でも景とだけは、うまくいかない。
 ――物部くんと仲良くなろうと思っていたのに……。
 何回か景に話しかけようとしたことがある。
 だけれど、景に話しかけようと試みても、心のどこかで拒絶されているような感覚に陥り、結局話しかけれない。
 いや。そもそも彼との会話を試みた機会も数えるほどしかない。
 決して彼一人の拒絶だけではなく、自分もまた避けている……。
 拒絶し、拒絶され、それでも同じ場所にいる。
 このような関係の名前は何と言うのだろうか?
 ――仲間、か……。
 梓や水原と自分は「仲間」と呼べる関係だと思う。
 そして景と自分の関係においても、「仲間」という言葉が当てはまるような気がする。
 景が『王国』に消えてからクリスマス・イブまでの九ヶ月間。自分は独りになっても戦い続けた。
 梓や水原たちが女王の力によって景のことを忘れていき、ついには景を探すことに疲れても、自分は諦めなかった。
 孤独で、辛くて、傷ついて、それでも諦めず戦いつづけて。
 なぜ、あんなにも必死に、自分は戦い続けたのか?
 その疑問に対する答えは、あの時も今も変わらず、はっきりとわかっている。
 ――仲間と自分のあるべき姿といるべき場所を、取り戻したかったから。
 過去のしがらみに決着をつけ、普通の幸せを受け入れはじめていた友人を『王国』から救い出すため。
 大切なものを奪われてしまったことすら忘れていく、親友を助けるため。
 死線を共にくぐり抜けた真に得難い相棒のことを忘れていく、あいつを助けるため。
 そして何よりあの孤独な戦いは、自分の知る本当の仲間の姿を取り戻し、また一緒に笑いあいたいという、自分の望みのためだった。
 あのクリスマス・イブの夜を超えて、自分たちはあるべき姿でいるべき場所でまた笑いあえた。
 そのときに自分たちは真の仲間になったのではないのか?
 だが、未だ壁は崩れない。
 彼は自分のことを仲間として見てくれているのだろうか?
 だが、未だ壁の向こう側は見えない。
 彼と自分の間にある壁に未だ変化は訪れない。
 しかしだからといってそれが、自分がその壁を壊さなくていいということになるだろうか?
 今まで崩れなかったからといって諦めたのでは、永遠に壁はなくならない。
 自分は景とわけ隔たり無く、仲間として接したいと思っている。
 そのためにはこの壁を壊すしか無いのだ。
 壁を壊そうと立ち向かう時、彼はもしかしたら「仲間」という言葉を否定するかもしれない。
 しかし、それがどうした。
 自分は彼を仲間だと思っている。
 自分は彼の仲間として、この九ヶ月間戦いつづけてきた。
 仲間だと思って、なにが悪い。
 ――そうだ。物部くんは私の大事な仲間だ。
 もう一度自分に問う。
 なぜ、この壁は崩れない?
 いや。この問い掛けは誤りだ。
 なぜ、自分はこの壁を崩さない?
 そしてこの問い掛けに答えるのは、他ならぬ自分だ。
 その答えは歴然としていて、それでいて酷く勇気ある行動を必要とする。
 だが今こそ、その答えを行動に移す時なのだ。
 ――こうなりゃ、ヤケよ!
 千絵は今まで一口も口を付けてなかったグラスに手をかけ、一気に煽ぐ。
 自分の最大の武器は、行動。
 その言葉を信じて、千絵はベランダへ向かう。
 刻は来た。今しか踏む出すことは出来ないのだ、この一歩は。
 そして歩み出した足が向かう先は一つしかない。
 自分が求める仲間がいる場所しか。

       ◆◆◆◆◆

「物部くん。ちょっといいかしら」
 ベランダに突然現れた千絵を見て、景は驚いた。
 先ほど室内で会話を中断してしまったことで居づらくなって、酔い覚ましも兼ねてベランダで夜風に気持ちよく当たっていたら、いきなりの登場人物だ。
 それでいてその登場人物の容姿は、頬をほんのり赤らめていて、足取りも少し怪しいが、その目は爛々と輝き、声も朗々と響いるという奇妙なものなのだ。
 驚くなと言う方が無理である。
 景には単に酔っているように見えたが、ただの酔っぱらいとして見過ごすには異様な雰囲気を放っていた。
「何だい?」
 それでも景は平静を装い、千絵の最初の呼びかけに応えた。
 そして彼女は前置きもなく、いきなり本題を口にする。
「ねぇ。私たちってもっと仲良く出来ないの?」
「えっ?」
 一瞬。かつて葛根市のアンダーグランドを脅かしたウィザードは、これ以上ないくらいに間抜けな顔をしていた。
 その間抜け顔はこう告げていた。すなわち、
 ――いきなり何を言い出すんだ……?
 と。
 しかし景がどんな顔をしていようと、酒の力を得た千絵は一気に捲し立てる。
「物部くんが『王国』に消えてからの九ヶ月間。私は物部くんや梓さん、水原、そして自分のために頑張ってきたわ。だって、おかしいもの。やっと手に入れた安息や、自分の大切な物を一方的に奪われて終わるなんて。そんなこと私は絶対許さない。絶対許せないから九ヶ月間、梓さんや水原があなたのことを忘れかけても、私は走りつづけた。そしてすべてが終わったあの夜、私は手に入れた。他の何物より眩しい光を放つ、私だけの宝石――『仲間』という名の宝石を。そしてその『仲間』の中にあなた――物部くんも入っている」
 千絵は景をまっすぐ見つめる。瞳はアルコールで潤んでいたが、その真剣さを伝えるには十分な意思の光を放っていた。
 ――彼女は、真剣だ。
 景はここにきてやっと、千絵が本気であることに気づいた。
 そして同時に、彼女が求めていることも理解した。
 ――……壁を破りたいんだ。
 自分と彼女の間に立ちふさがる壁。それは自分が作り上げてきた壁だった。
 知らない他人に「異邦人」というレッテルを貼付け、自分と「同胞」を守ってくれる。それが子供の頃に作り上げた『壁』の役割だった。
 ――まだ、残っていたのか。
 景は人知れず苦笑する。女王と決着をつけて、過去の出来事はすべて清算したつもりになっていたが、自分の内側にまだ問題は残っていたようだ。
 梓と再開してから多くのことが起こり、多くの人と出会い、そして多くの仲間を手に入れた。
 もはやそこには「異邦人」や「同胞」を隔てる『壁』は存在しないと思っていた。 
 しかしこの千絵の様子を見ると、自分の知らない内にまた壁を作り上げていたようだった。
 ――壁は壊さなくてはならない。
 それは少年の頃に出会った、名も思い出せない少女が教えてくれたことだ。
 そして今また、自分の目の前に壁を破る者が現れた。
「…………」
 長いこと黙って考えていたせいだろうか。目の前の少女は不安に満ちた目でこちらを見つめている。――拒絶されないだろうか?――、そんな心の裡をありありと表した瞳だった。
 景は再び、心の中で苦笑を浮かべる。
 いいだろう。
 壁は破られなければならない。
 そしてまた自分も破りたいと思っている。
 何を迷う必要があるんだ、物部景?
 今こそが。今こそが、壁の向こう側へ踏み込むべき時、行くべき刻だ。
 そして、一瞬にして永遠の煩悶の後、少年はついにその一歩を踏み出す。
「僕が『王国』に消えた夜、梓ちゃんに告白されたんだ」
「えっ?」
 千絵は完全に呆気にとられている。
 しかし景は千絵の様子など構わず、壁の向こう側へ歩み続ける。
「『わたしもつき合うよ』って言われたんだ。僕が浪人をするなら一緒に勉強するし、学校辞めるなら一緒に辞めるとも言われた。そのときは、かなり驚いたよ。今までは自分がどうなっても、梓ちゃんが幸せであれば良いと考えていたのに、梓ちゃんが自分にどこまでもつき合うって言うんだからね。それから急に自分の将来に臆病になってしまった。ただのジャンキーの頃は将来なんて関係ないと思っていたのに、梓ちゃんに告白されて急に怖くなってしまった。自分の将来に梓ちゃんを巻き込むことを考えると怖くなって、さっきも将来のことを海野さんに話したときにも、途中で喋るのを止めてしまった」
 千絵はようやく景の話すことが理解できはじめた。
 さっき室内での会話を中断した理由を説明したいのだ、ということを。
 だが、歩きはじめた景はここで止まらない。まだ壁の向こう側へとは至ってない。
 常に勇気を必要とする一歩を止めずに、さらに進み続ける。
「だけど将来を怖れていた理由は梓ちゃんだけじゃない。春に四人で集まったときに将来のことについて話し合ったじゃないか? あのとき僕は決めてないと答えた。でも本当は将来というものの存在自体、考えたことがなかったんだ。女王を止めたら、その場で燃え尽きる気で戦いつづけてきた人間に将来なんて必要ないだろう? だけれども僕は女王を倒して、生き残ってしまった。正直、戸惑うしかなかった。六年間、『やらねばならない』という義務感で生き続けてきたのに、いきなりその目的がなくなってしまったんだ。
 そして新たな目的を見つけることを出来ずに、惨めに過去の戦いに思いを馳せ、燃えたぎる血をかろうじて押さえつけていた。将来に向けて頑張っている奴らを嘲笑っていたりもしていた。でも心の中は、目的もないのに有無を言わせず未来に進んでいく恐怖で埋め尽くされていた。だからひと時の生の実感が得たくて、甲斐と戦ったりもした。でも今は――」
 そこで景は視線を室内へと移す。
 室内には彼の仲間である、二人がいた。
 そして目の前に、もう一人の仲間がいる。
「でも今は、未来を怖れていない。なぜなら、新たな目的を見つけることが出来たから。それは――」
 ここで初めて景は、喋るのを止めた。
 だけどもその様子には、聞き手を拒絶するような雰囲気は微塵もなく、それはむしろ『照れている』といった感じであった。
「それは?」
 千絵は拒絶されてないと知ると、景の告白の先を促す。
「そ、それは……」
 促されて景は、照れつつも先へ進む。
「『仲間』を守ること。梓ちゃんや水原、……それに海野さん。君も、僕が守りたい『仲間』だ」
 景はようやく歩みを止めた。
 それは目指していた場所に着いたことを示していた。
 壁を越え、ようやく仲間のもとへと辿りつけたのだ。
 ――君も、僕が守りたい『仲間』だ。
 そして同時に千絵も、壁が崩れたことを知った。
 今、仲間と自分のあるべき姿と、いるべき場所を得た。
 そう心に強く感じた。

 夜風が冷たい。
 長い間話し込んでいたせいか、体の芯まで凍ってしまったように思える。
 冷え性の身である自分には、かなりキツいものがある。
 それでもまだ彼に伝えなければならないことがあった。
 震える唇から白い息を吐き出しつつ、もう一度彼に話しかける。
「ねぇ、物部くん」
「?」
「さっき仲間のことを守るって言ったけど……」
 先ほどのことを思い出したのか、景の顔がわずかに赤くなる。
 その様子をからかうように――それでいて真剣に――千絵は一つ、仲間にお願いごとをする。
「物部くんにしか出来ないことだけど――梓さん、お願いね」
 まっすぐ景と向き合い、力を込めて言葉を吐き出した。
 そして、それを仲間の真剣な頼みと理解した景は一瞬肩を緊張させ、しっかり千絵を見返すと、
「ああ」
 確固たる誓いを立てた。
 そして女王を守る魔法遣いとなった男も、同じように仲間に願い事をする。
「君も――あいつを頼む」
 景の視線の先には、酔いつぶれてよだれを垂らして寝ている、情けない男の姿があった。
 それを見た千絵は口元に苦々しくも温かい笑みを浮かべつつ、
「ええ、もちろんよ」
 また、誓いを立てた。
 だが誓いの言葉の後についてくるように、ドサッという音がベランダに響く。
 千絵がその場に倒れ込んでしまったのだ。
 景はあわてて近づく。
「う、海野さん、大丈夫!?」
「う〜お酒なんて飲むものじゃないわ。ものすごく気持ち悪い。胃からこみ上げてくるものが……う、ううっ!」
「と、とりあえず中に入ろう!」

 景はそのあと、部屋で胃の内容物が逆流しかける千絵を介抱してあげた。
 そんな千絵もしばらくすると落ち着いて眠りについてしまった。
 それから景は一人、カフェオレを作って飲み、夜が明けるのを待った。
 眠るのにはもったいないような気がしたのだ。
 今日はとてもうれしいことがあった。
 夜が明けてしばらくすれば、わがままな女王や軽薄軟派師、そして酒に弱い探偵も目を覚ますだろう。
 そうすればまた、楽しくてバカバカしいあの喧噪がまた戻ってくる。
 今度は前よりもっと楽しいはずだ。壁を壊した新たな仲間とともに騒ぐ喧噪は、前よりもっと楽しいはず。
 それを待つのが楽しくてたまらない。それを考えるのが楽しくてたまらない。
 つまりは、待ちきれないのだ。仲間との馬鹿騒ぎが。
 そして日が昇って仲間と一緒に騒いだら、また歩き出す。自分の未来へ向けて。
 それはもはや不安な未来なんかではなく、可能性に満ちた未来だ。
 今日もこうやって壁が崩れる刻が来て、壁は崩れた。
 あらゆる刻が自分を待っている。
 しかしそれは自分で動かなければ、決して出会うことが出来ない刻でもある。
 梓ちゃんを守るため、仲間を守るため。
 そのために歩き続けよう。
 そしてその歩みを止めなければ、新たな仲間を得ることが出来るかもしれない。
 いつだって、刻は来る。
 また可能性の未来が来る。
 そこにはまたかつての不安が蘇るかもしれない。
 だが、大丈夫だ。
 仲間と迎える夜明けはもうすぐなのだから。


 END



 あとがき